美食を求めてイタリアへ
昨年の6月、私たち夫婦はモロッコ旅行のついでにイタリアへと足を運んだ。随分と贅沢に聞こえるかもしれないが、実際は移動費の節約を試みただけである。モロッコの国営航空であるロイヤル・モロッコ・エアーが運行している直行便は割高だったので、私たちはイタリアでライアン・エアーという地獄めいたLCCに乗ってモロッコに向かった。
あの頃、私たちは発展途上国に住んでいた。住み始めて間もない時、一通りの現地料理を試したものの、口に合うものは見当たらなかった。
当時の私の心境は、市ヶ谷への突撃を控えた三島由紀夫に似ていたかもしれない。三島は割腹する年の夏、一家で下田に滞在していたが、来訪したドナルド・キーンと一緒に寿司屋に行った際、「俺には他のものを食べる時間がないんだ」と言いながらトロだけを食べ続けたという。
私も自分なりの市ヶ谷行きを決行し、美食でないものを口にするくらいならと何も食べずにいたところ、すぐさまガリガリに痩せてしまった。その結果、医者に「栄養失調ですね。放っておくと死にますよ。」と言われてしまい、それを伝え聞いた周囲の人々を狼狽させてしまった。
医師の忠告を受けてから、私は現地の外国人向けレストランで食事を取るようになり、栄養失調の問題自体は解決したのだが、値段が日本の外食より数倍も高いのに味は遠く及ばなかったから、美食への飢えばかりが募っていった。
その中で夫婦を惹きつけたのがイタリア料理である。一日が一年に感じられる赤道近くの国で、熱気と大気汚染とを避けて冷房の効いた自宅で暮らすうちに、私はイタリア在住の日本人シェフがパスタを作るYoutubeチャンネルを観るのに熱中した。
現地で修行した叩き上げのシェフであるトシさんは、フィレンツェで地元民に愛されるトラットリアを経営している。りんごのように血色の良い彼は、動画で観る限り人生を謳歌しているように感じられるし、イカスミのパスタやらポルチーニ茸のフライやら、作る料理も実に美味しそうである。
妻もこのチャンネルを大層気に入った。私が帰宅すると、留守番役の妻はしばしばダブルベッドで口を開けたまま寝ていた。こうした時、右側ではお絵かき帳が拡がっていて、左側ではトシさんの動画がiPadで再生されたままになっていた。
そういうわけで、夫婦の間で知らず知らずのうちに、イタリアは美食への渇望を象徴する場所になっていた。折しも結婚一周年が近づいていたので、まだ見ぬヨーロッパの地に足を運びたいという妻の希望を叶える意味も込めて、私たちはイタリアへ向かった。
ローマ最古のレストラン “La Campana”
今回のイタリア旅行のあらましは、ローマに拠点を置きつつ、フィレンツェやナポリに日帰りで足を運ぶというものだったが、私の大きな楽しみの一つはローマで最古のリストランテ”La Campana”に足を運ぶことだった。イタリアの飲食文化においては、日常の食事を提供するのがトラットリア、きちんとした料理がリストランテという区分があるようで、この店は我々が訪問した唯一のリストランテだった。
この店は1518年創業だから、すでに500年以上続いていることになる。小さな門をひそやかに石畳の路地へ晒すばかりの店構えには、自らを誇示する必要を感じない余裕がある。さりながら、様々なガイドブックの掲載シールが所狭しと貼られているガラス戸には、華々しい軍功を挙げて数多の勲章を胸に飾る将軍のような風格がある。
私たちが予約客である旨を店頭で伝えると、すぐにテーブルに案内されて、日本語を話せるウェイターさんが親切にメニューを案内してくれた。店内を見渡すと、レジを挟んでキッチンに繋がるホールの奥は、どうやらオーナー一家の専用テーブルらしい。六十近くに見えるジャケット姿の男性オーナーは、人生の酸いも甘いも知り尽くした渋い顔立ちをしていて(調べてみたら国会議員だった)、くつろいだ様子で妻子と思しき女性二人と飲み食いしている。彼らが家族一同でお店に睨みを効かせている姿は、私が「ゴッドファーザー」を観て培った想像のイタリアそのものだ。
私たちは結婚一周年を祝おうと、柄にもなく赤と白のハウスワインを飲み、しばらく経ってから前菜の生ハムメロンがやってきた。夕張メロンのようなオレンジ色の果肉の上に、俺を喰らえと言わんばかりに生ハムが覆い被さっている。注文を受けてから削られたと思しき生ハムは、柔らかい食感の中に、熟成した肉の香りと確たる塩気を含んでおり、よく熟れた水々しいメロンと一緒に口に含むと、旨味が一気に喉まで流れ込んできて陶然としてしまう。ワインとの相性も抜群に良い。
続いて運ばれてきたパスタはローマ料理の代表格であるカルボナーラで、これもまた素晴らしい出来栄えだった。ローマのカルボナーラに使われる麺は、太くて縮れた生麺が多いようだが、もう一つの主流が土管のようなこのリガトーニである。
ローマのカルボナーラは往々にして重いのだが、この店のは抑制が効いていて上品である。じっくり炒めたパンチェッタの脂は、深い肉の香りを漂わせつつも甘い味わいで、それをリガトーニの細かい溝が存分に吸い上げ、味わい全体の基調を成している。そこにチーズと卵黄のふくよかな旨味が外套を着せ、胡椒がわずかにアクセントを沿えている。カルボナーラは豚の脂を堪能するための料理だと、私はこの見事な一皿に教えられたのである。
メインに頼んだのはミートボールのトマトソース煮込みである。酸味が控えめでこっくりとした味わいのソースに、つなぎが少なくて弾力のあるミートボールがごろごろ転がっていて、たくさんのグリーンピースが食感に彩りを添えている。見た通りの味わいなのだが、トマトソース系の料理が期待通りの味をしていることは案外少ないもので、さすがに老舗の底力を感じさせる。
他にもいろいろと食べ過ぎてしまったので、デザートに辿り着く余裕はなかった。下戸の私が珍しくハウスワインを飲み干したので、退店する頃にはへべれけになってしまい、妻に肩を組みつつ店を出る羽目になった。酩酊した目に映る石畳の街並みは実に美しかった。ローマにて500年以上続くこの店で、幾多の客が同じ醜態を晒したか分からないが、私もその一人になれたことを幸福に思う。
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