紹興旅行記ー咸亨酒店・紹興酒・蘭亭

 中国近代文学の礎を築いた魯迅の短編に「孔乙己」という有名なものがある。

 話は極めて単純で、紹興に実在する咸亨酒店を舞台に、皆の笑い者にされている孔乙己という渾名の男を描いている。この男はもともと知識人だったが、科挙にかすりもしないまま歳月を経るうちに没落し、窃盗を働いて得たと思しき小銭を手に店に現れて紹興酒と粗末なつまみを頼む。しかし、最後は困窮を極めて死んだのか、店先に姿を現さなくなる。

 清朝が倒れてから間もない頃に書かれたこの作品は、一人の架空の人物に対する巧みな描写を通じて、時代の急激な変化に取り残された知識人の普遍的な悲劇を描き出している。

 翻って我が身を振り返れば、大なり小なり孔乙己と重なる生涯を送ってきた。専門知に社会を変える力があると信じて大学院に進んだが、その後のわずかな社会経験を通じて、私はこうした純粋な幻想があまりにナイーブであることを学び、博士課程に進むことは考えなくなった。科挙の第一段階さえ突破できなかった孔乙己も、修士を取っただけの私も、知識の浅さは大して変わらない。金に困ってきたのも同じだ。

 だからこそ私は、紹興に足を運んで、どうしても咸享酒店で一杯傾けなければならなかったのである。

杭州から紹興へ

杭州の代名詞・西湖。
杭州の胡雪岩故居にて。江南第一の邸宅と称されているが、清朝末期に身一つで成り上がった金貸しのオーナー・胡雪岩さんは、最期に破産して悲惨な結末を迎えたらしい。諸行無常。

 我々夫婦は杭州旅行のついでに紹興へ立ち寄った。紹興は杭州に隣接しており、新幹線に乗れば二十分くらいで行ける。杭州が南宋の都という歴史を誇りつつも、発展した清潔な現代都市としての印象をより強く与えるのに対して、紹興は古い街並みをよく残した小規模な都市で、伝統的な中国の雰囲気をより色濃く残している。こうした好対照は、上海と蘇州、あるいは大阪と京都の組み合わせによく似ている。

 今回の旅行で使った紹興北駅は、建設中のまま永遠に日の目を見なさそうな政府肝入りのゴーストタウンの中心に位置しており、タクシーに小一時間乗らなければ旧市街まで辿り着けない。

 この問題には、中国の高速鉄道が日本の新幹線と異なり、しばしば一つの街に複数の駅を設置していることが関係している。大抵の場合は、街の名前を冠した駅が一番便利で、対照的に、東西南北のいずれかが都市名に付いた駅は街外れにぽつんと建っている。

 残念ながら、大抵の都市では不便な後者に発着する新幹線が圧倒的に多く、この駅はその顕著な例だった。まったく、公共交通機関を整備する前に辺鄙な場所へ高速鉄道を通してしまうのはどういう了見なのか、なかなか私には理解できない。

 新幹線が到着した際、鉄骨を剥き出しにした周囲のビルは夕闇に飲み込まれており、排気を含んだ砂塵が容赦なく肺を痛め付けた。駅の出口からタクシー乗り場まで続く陸橋が無駄に長いことに憤慨しながら、魯迅の短編に描かれた咸亨酒店に向かう。

咸亨酒店で夕食を

 紹興の旧市街はかなり小さく、その中央に咸亨酒店は位置している。きちんと下調べしていなかったので到着してから知ったのだが、現在の咸亨酒店は随分と立派なホテルのようで、酒場はその一部に過ぎないらしく、施設内には広い廊下があって様々なレストランが入居しているので道に迷った。また、この周りは観光地なので近くには屋台や土産屋が並んでいて、同じ通りを奥まで進めばそのまま魯迅の生家に出る。

 こうした土地柄なので、酒場の入口にはご丁寧に孔乙己の銅像まで建っている。例の短編では酒場の従業員も客も揃って孔乙己を小馬鹿にし続けており、咸亨酒店の名声が決して高まるようなものではないのだが、街興しのためにはそんなことはお構いなしのようである。「坊つちやん」で散々コケにされた愛媛の松山が、何食わぬ顔で夏目漱石を讃えているのに通じるものがある。

 いざ酒場の中に入ってみると、吹き抜けになった広い空間に、たくさんの古風なテーブルが規則正しく並んでおり、その奥の一面がキッチンになっている。料理はテーブルに貼り付けたQRコードから注文することになっており、この店にも現代化の波が押し寄せていることを感じる。せっかく店構えが古風なのに、注文の仕方は味気ないのが残念だ。我々が注文したのは、作中で孔乙己が常に頼んでいた紹興酒に茴香豆、それから酔っ払い鶏である。

 紹興酒が運ばれてきた時に意外だったのは、使われている器が盃ではなく、スープの取り分けに使いそうな小碗だったことである。深い麦色を湛えたその酒をいざ口にすると、仄かにとろりとした口当たりで、自然なお米の甘みと、発酵した深い香りとがじわじわと口腔を染め上げる。決してアルコール度数が高い酒ではないのだが、強い。一口飲んだ妻は「カァーッ!」と言いながら口をチュマチュマと動かしていた。

 続いてつまみの茴香豆を食べる。茴香豆とはウイキョウという香草と空豆を一緒に炊き合わせて冷ましたもので、甘辛い味付けと薬草酒のような香りが特徴だが、それ自体は取り立てて美味しいわけでもない。

 しかし、紹興酒と合わせた途端に突如として美味しくなるので驚いた。紹興酒は単体で飲み続けるには味が強いので茴香豆という個性的な脇役を求めるし、また茴香豆には酒の深い味わいで流し込みたくなる独特の香味がある。二つの存在が有機的なインタープレイを通じて更なる高みに到達するのは、ビル・エヴァンスとスコット・ラファロとの関係に似ている。

 それから本場の紹興酒を使った酔っ払い鶏が美味いことは言うまでもない。下戸な私はいつの間にかしたたか酔ってしまったので、哀れな孔乙己の存在は後景に退き、上質な酒がもたらす陶然とした心地よさに浸ってしまった。

伝統的な紹興酒を求める: 倉橋直街の『謝記手作坊』

 翌朝ホテルを出てぶらぶらと街を歩き、九代にも渡って紹興酒を造り続けているという小さな酒蔵へと買い物に向かった。市の中心にある大通りを横に曲がると、倉橋直街という名の古風な通りが急に現れるのだが、酒蔵はその中に小さな店を構えている。屋号は謝記手作坊という。

 店に入ると、伝統的な衣服の長袍を着た、三十半ばくらいの垢抜けたお兄さんが出迎えてくれるのだが、彼こそが九代目その人だという。私の経験上、一つの街に永く根を下ろした豊かな人は、特有のゆったりとした雰囲気を醸し出しているのだが、目まぐるしい勢いで変化する現代中国では珍しいことに、この九代目もその一人である。

 この店では熟成年数の異なる複数の紹興酒を売っていて、早いものでは一年間、最も長いもので二十年間のものがある。九代目が何でも試飲させてくれるので、餓鬼めいた我々は厚かましく一通り味見させてもらった。どうやら熟成年数が少ないほど酒の色は浅く、味はさっぱりしており、逆に多いほど色が深く、酸味が強くなるようである。個人的には熟成年数が浅い方が好みだった。

 また、通常のラインナップとは別に、原漿酒というものも置いてあり、これが一番美味かった。九代目によれば、通常の紹興酒は餅米を蒸し上げる過程を一度しかしないのだが、この原漿酒は二回するのが特別だという。その工程が味わいに影響する仕組みは素人に分からないものの、原漿酒は通常のものより少し甘く、口当たりが特にまろやかである。

 なかなか気に入ったので、ペットボトルにラベルを貼っただけの原漿酒を何本か購入した。包装文化の日本人にとっては興味深いが、これは中国で美味い酒を買う時にしばしば遭遇する現象である。私はこの酒を注いだら映える盃を何か手に入れたら空けようと思って、今に至るまで一ヶ月以上自宅に置いているが、果たしていつ開封できるのか分からない。

ローカルの人気店で昼食を

 それから市内で人気のレストラン・尋宝記紹興菜で昼食を取った。我々は浅薄な観光客なので、紹興酒を使った料理をたくさん頼んでしまった。酔っ払い蟹は当たり前のように美味しいし、変わり種の紹興酒ミルクティ、紹興酒プリンも案外きちんと楽しめる。昨年、中国で人気のコーヒーチェーンが茅台酒入りのラテを発売して爆発的に売れたが、あれは普通のラテに消毒用アルコールを足したような味で実に不味かったのに対して、紹興酒入りミルクティは一つの飲み物として成立している。

 また、紹興酒プリンは、プリンそのものに酒粕を使っているうえ、カラメルにも紹興酒を使った凝りっぷりだが、苦みと甘みが酒の香りと見事に調和している。思うに、紹興酒は深い香りがする上に優しい甘さがあるので、乳製品との親和性が高いのだろう。

 しかし、我々が特に気に入ったのは紹三鮮という名前の鍋だった。恐らく地元を代表する三種類の具材を使っていることがその名の由来なのだろうが、この鍋にはエビ・各種干し肉・鶏豚肉・野菜などが入っており、どの三つがとりわけ重要なのかはよく分からない。

 ともかく、鶏がらスープの中に色とりどりの具材から旨味が染み出して黄金色になっているのが美しく、味付けも優しいので黙々と食べ進んでしまう美味である。

 酒のできる街は、自ずから水が綺麗で穀物が豊かでなければならないが、そのような街では当然豊かな料理文化が発達する。隣町の杭州とは異なる美食を揃えた紹興は、その説得的な具体例だと言えよう。

おまけ・蘭亭

 実は、この旅行のもう一つの目的は、書の古典・蘭亭序にゆかりがある蘭亭を訪ねることだったのだが、すっかり幻滅してしまったのでごく簡単に書き記しておく。

 永和9年(西暦393年)、東晋の貴族・王羲之は蘭亭に客人を招き、曲水の宴を開いた。その時に皆が詠んだ詩を纏めたものに、王羲之が一献を傾けながら感興のままに認めた序文が蘭亭序であり、今日に至るまで書の古典として名声を恣にしている。この蘭亭は紹興にあるので、文人に憧れる東夷の私は、ぜひ訪れて何かにあやかりたいと願っていた。

 蘭亭が存在した場所は近年になって復元されている。旧市街からタクシーで三十分くらいかけて、再び砂埃だらけの味気ない郊外を進むと、中途半端に整備された現在の蘭亭が現れる。広大な敷地は半ばテーマパークのように整備されているが、史跡らしい史跡はほとんどなかった。

 ここには明の時代に創建された寺院があったそうだが、その後廃絶したという。その寺院も建築だけは復元されていて、磨き上げられた床に山林が映えるのを売りにしており、ネット上で「京都の瑠璃光院に行く必要はない。蘭亭があるから」などと書かれていたが、実物は何ということはなかった。

 もともと実業家の別荘だった瑠璃光院は、特に歴史があるわけでもないにせよ、机に映えた青紅葉の一点でいたく珍重されているが、お坊さんすら居ない蘭亭の寺院もどきは、一顧だにする価値すら感じなかった。

 また、蘭亭は書の聖地ということで、テーマパーク内には書道博物館が設置されていたが、展示されている書道作品は大部分が複製品で、これも極めて残念であった。

 敷地内にわずかに残る歴史的な遺構といえば、王羲之・王献之の手になるという「鵞池」の碑、そして清朝の康熙帝が御幸の際に残した「蘭亭」の碑が建っているばかりで、しかも後者の説明書きには「一部が欠損しているのは、『特殊な時代』に破壊されたためです…」などとある。日本軍が破壊していたら明確に書かれているはずなので、恐らくは文化大革命の際に怒れる群衆がぶち壊したのをありのままに書けずにいるのだろう。

 そのような蘭亭が、今や中国の伝統を伝える観光地として整備されているのだから、皮肉なものである。サウナで身体を温めた後に冷風呂に浸かるのを繰り返すと、最後に心臓への負担が極まって倒れてしまう人がいるそうだが、伝統文化を破壊しては持ち上げてを繰り返しているこの国は、一体どこへ向かうのだろうか。

 色とりどりの漢服を纏い、所構わず自撮り棒をかざしている若い女性たちが次々に視界を出入りするなか、私は余計な心配をせざるを得なかった。

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